2020年07月18日

無題


 一年が経ち、このごろは落ち着きを取り戻してきました。

 かれらの生と業績が忘れ去られることがないよう記録を続けている方々には敬意と感謝をささげますが、私はかれらについての記事を読んだり映像を見たりすることは出来ないままで、これはたぶんこの先もそうなのでしょう。ただかれらが作り上げたものを愛している人がいると知るたび、わずかに慰めをおぼえるだけです。

 去った人たちに対して自分ができることはあまりにも少ない、もしかしたら何も無いという事実に、ずっと向き合っています。

posted by 米澤穂信 at 10:45| 近況報告

2020年07月10日

「遠雷念仏」


掲載誌:「カドブン」
配信日:2020年5月10日、6月10日、7月10日


 また、かすかに雷鳴が耳に届く。村重は首を巡らして障子を透かし見るが、夏の日は眩しいばかりに照り、ふたたび夕立が来ようとは思われない。
「遠雷じゃな」
「さようにござる」
「こなたに来ねばよいが。落ちねばよいが」
「さようにござるな」
「……儂は将じゃ。雷が来ねばよいと願うだけでは足りぬ。御坊。有岡の開城は、長島、上月のようであってはならぬ」



 城兵の士気は未だ高く、武具兵粮の備えも充分で、有岡城はまだ一年でも二年でも戦える。だからこそ荒木村重は、戦の終結に向けて交渉を始めていた。交渉の窓口は息子の義父、惟任日向守光秀。使僧を丹波に派遣し、村重は終戦工作を進めていた。しかし惟任家は深入りを嫌ってか、到底村重が呑めない、過大な条件を突きつけてくる。世に知られた名物、銘〈寅申〉を質として渡せというのである。
 村重は、その条件を受け入れ、〈寅申〉は使僧の手に渡った。使僧は払暁を待ち、有岡城を忍び出て光秀のいる丹波を目指す手はずになっていた。

 その夜、使僧が斬られた。
 むくろを検めた村重は、残された荷物の中に〈寅申〉がないことに気づく。あれがなければ終戦工作は頓挫してしまう……。
 使僧を斬ったのは、織田の手の者か? そうとも言い切れない、奇妙な点が村重の気にかかる。

 村重は地下へ向かう。この有岡城で最も優れた知恵者にして囚人、黒田官兵衛に会うために。
 まだしも受け入れられる形で、この戦に敗北するために。

posted by 米澤穂信 at 00:00| 雑誌等掲載短篇