2014年06月21日

「ほたるいかの思い出」


「小説新潮」2014年7月号(新潮社)収録
発売日:2014年6月21日 雑誌定価(本体):861円



 声に出して、
「負けるもんか」
 と言ってみた。でも、波の音が大きくて、情けないぐらいに小さくしか聞こえない。もう一度、腹に力を入れて、
「負けるもんか」
 と叫んだ瞬間、自分ほど勇敢な小学生がこの世にいるだろうかと思っていた。




 雑誌「小説新潮」に寄稿した短篇です。

 琴座流星群がよく見えるという新月の晩、わたしは新婚の夫とベランダに出て、鍋物をしながら流れ星を待つことにした。ところが用意が早すぎて、夕食が済んでも流星群のピークにはまだ間がある。夫は空ばかり見上げていたが、
「そうか。今夜は、そういう夜か」
 と呟くと、子供の頃の思い出を話し始めた。
 小学四年生の春。夫は虫取り網を持って、こごえるような夜の富山湾へと自転車を走らせていた。春の海に打ち寄せられるというほたるいかを採って、父と母に喜んでもらうために……。
 その思い出話は、やがてむごい結末を迎える。そしてわたしは、夫の話には一つだけ奇妙な点があることに気づいていた。

 山本周五郎賞受賞記念短篇として、選評掲載号に載せて頂きました。
posted by 米澤穂信 at 00:00| 雑誌等掲載短篇