2020年07月10日

「遠雷念仏」


掲載誌:「カドブン」
配信日:2020年5月10日、6月10日、7月10日


 また、かすかに雷鳴が耳に届く。村重は首を巡らして障子を透かし見るが、夏の日は眩しいばかりに照り、ふたたび夕立が来ようとは思われない。
「遠雷じゃな」
「さようにござる」
「こなたに来ねばよいが。落ちねばよいが」
「さようにござるな」
「……儂は将じゃ。雷が来ねばよいと願うだけでは足りぬ。御坊。有岡の開城は、長島、上月のようであってはならぬ」



 城兵の士気は未だ高く、武具兵粮の備えも充分で、有岡城はまだ一年でも二年でも戦える。だからこそ荒木村重は、戦の終結に向けて交渉を始めていた。交渉の窓口は息子の義父、惟任日向守光秀。使僧を丹波に派遣し、村重は終戦工作を進めていた。しかし惟任家は深入りを嫌ってか、到底村重が呑めない、過大な条件を突きつけてくる。世に知られた名物、銘〈寅申〉を質として渡せというのである。
 村重は、その条件を受け入れ、〈寅申〉は使僧の手に渡った。使僧は払暁を待ち、有岡城を忍び出て光秀のいる丹波を目指す手はずになっていた。

 その夜、使僧が斬られた。
 むくろを検めた村重は、残された荷物の中に〈寅申〉がないことに気づく。あれがなければ終戦工作は頓挫してしまう……。
 使僧を斬ったのは、織田の手の者か? そうとも言い切れない、奇妙な点が村重の気にかかる。

 村重は地下へ向かう。この有岡城で最も優れた知恵者にして囚人、黒田官兵衛に会うために。
 まだしも受け入れられる形で、この戦に敗北するために。

posted by 米澤穂信 at 00:00| 雑誌等掲載短篇