今日はちょっと残念なことがあったので聞いて下さい。
年が改まり、平成21年分の課税期間が始まりました。平成20年分の領収証や支払調書はそれぞれノートに貼り付けてありますが、それらのノートを新調しなくてはなりません。近くのスーパーマーケットには学習帳やキャンパスノートは置いてありますが、私が望むようなA4サイズのリングノートは見あたらなかったので、吉祥寺まで出かけてきました。
目当てのノートの他、溢れつつある紙類を適宜整理するためのバインダーを幾つか買い込み(こういうものは意外に高いですね)、私は店を出ました。
夕食を生パスタの店で食べようと算段していたのですが、思ったよりも遅くなってしまい、店は閉まっていました。そこでどこか適当な店で適当なものを食べ、その後、喫茶店に向かいました。
読みかけの本がちょうどクライマックスだったので、読んでしまおうと思ったのです。
喫茶店は、アール・ヌーボーの雰囲気に統一されたなかなかお洒落な店です。使われているランプがどこかドーム兄弟の作風を思わせるのですが、私にとってこの店がよいのはランプのためではなく、0時まで店が開いているからです。
犯人はほぼ登場の時点でわかっていて(その作家の創作傾向を知っていれば、ほぼ確実とも言えました)、名探偵の失策はほとんど致命的で見ていられないほどのものでしたが、それでもその小説はたいへん面白く、ぐいぐいと読んでいきました。
最後の対決が終わり、事件が解決しロマンスが実を結び、満足して店を出ました。時刻はちょうど閉店間際でした。
店を出たところで、声をかけられました。
このあたりには黒服の客引きが少なくないのです。一人で歩いていると、「キャバクラいかがすか?」と近寄ってきます。そういえば以前、ある人に「米澤さんはああいう店に行かないんですか」と訊かれて、バカにするなとばかり「常連ですよ」と答えたことがありました。「へえ、どんな感じなんですか」「そうですね、店に入るとまず『ああら米さん、ずいぶんとお見限りねえ』と……」「嘘だー!」という会話の流れだったんですが、どうして嘘とばれたのかまったく見当がつきません。ちゃんと泡坂作品を参考にしたのに。いや、泡坂作品はこんな感じじゃないか。では誰の小説でしょう。まあいいや、話を先に進めましょう。
声をかけてきたのは黒服の客引きではなく、外国人のカップルでした。
なんかペラペラと話しかけられましたが、英語を話せるかと尋ねられたことはわかりました。
英語なんて高校で習ったきりで、大学ではナルニア国物語を訳すゼミに出ていたりしましたが、基本的に英会話を勉強したことはありません。私は答えました。
「じゃすたりとー。ばっらいむのっとぐっどあといんぐりしゅ、すぴーくすろーりーぷりーず」
外国人カップルの男の方は私のぷあいんぐりっしゅをわかってくれたようでしたが、ちっともゆっくり話してくれませんでした。
どうやら彼らは、バーで一杯やりたいと考えているようなのです。
「ゆーうぉんどりんきん?」
手振りをつけて訊くと、どうやら間違いないようです。いい店がないか知りたいようでした。
はたと困りました。零時をまわった吉祥寺で、外国人カップルが気楽に飲めるバー……。確かにすぐ近くに、いい店があるにはあるんですが。いちおう言ってみました。
「あいのうざぐっぷれいすとぅどりんく、ばっとおんりーじゃぱにーずさけ」
さて問題です。
1)2センテンス目は「しかしそこには日本酒しか置いていません」と言いたかったと推測されます。「おんりー」と「じゃぱにーずさけ」の間に適切な言葉を補い、文を完成させなさい。
2)正確なスペリングを調べるのを面倒がっている米澤のために、英語に直しなさい。
3)「あなたがもし受験中なら、こんなところを見ているべきではない」を英語に直しなさい。
4)そもそも何か根本的に間違っていると考えた場合、その言葉を呑み込みなさい。
(各4点)
外国人カップルは、そこでもいいと言っているようでした。
しかしそこは、確かに料理も酒もいいのですが(ノドグロが素敵でした)、本当に純日本風なのです。それに少し値が張りますし、深夜までやっているとも思えない。お勧めは出来ません。
脳裏に吉祥寺の地図を展開しました。心当たりはあと五ヶ所。
そのうち一ヶ所は、やはり純和風なうえ席によっては正座を求められ、しかも遠いので却下です。
別の一ヶ所は近いことは近いのですが、客層が若く彼らにはうるさすぎるかもしれない。それに基本的にエスニックの店なので、好みに合わない可能性が高い。
次の一ヶ所はジャズバーですが、週末に店を開けていたかどうか自信がありません。
その近くの一ヶ所は気楽ですが、バーではなくアルコールも出す深夜喫茶です。ついでに閉店は一時なので、あと一時間しかありません。
最後の一ヶ所がたぶん最適ですが、吉祥寺というよりほとんど西荻窪の店で、歩くと遠いのです。
困った私は、自分の背中側を指さしながら言いました。
「でぃすかふぇずますたーますとのう。あいあすくひむ」
後から思ったのですが「ますと」は強すぎますね。適切な単語に置き換えなさい(3点)。
そして店に戻って、尋ねます。
「ぜいうぉんと、あ、すいません、この人達がバーを知らないかと言っているんですが」
しかし、店の人もいいバーは知りませんでした。「そこのうどん屋でしたら……」「そういうわけにもいかないでしょう……」と、歯切れの悪い会話を繰り広げました。
私とカフェのマスターの会話が不調だと悟ったのでしょう。それに、ずいぶん時間もかかっていました。カップルは何事か話すと(「ありがとう、でももういいです」だったに違いありません)、手を振ってその場を去ってしまいました。
帰り道、私はたいへん残念でなりませんでした。
旅人に親切にすることは、文化人類学の観点から見ても世界的に共通の美徳です(その親切は、後腐れなく、そして出来るだけ早く旅人を追い出すためのもの……という考え方もありますが、まあそれはそれとして)。
しかし私は彼らの役に立つことができませんでした。とても残念です。
そしてもう一つ、どうしても残念なのが、どうしてあのときにハモニカ横町(吉祥寺駅前の飲み屋街。もちろんバーもあります)の存在を思い出さなかったということなのです。あそこなら、いくらでも店があったでしょうに。
夕食を予定通り生パスタの店で食べていれば、思いついたに違いないのです。その店もまた、ハモニカ横町にあるのですから……。
街の案内人としての我が身の未熟が、骨身に沁みました。
彼らが良い夜を過ごせたことを祈りつつ、おとなしく納税用資料を作るとします。