2009年05月27日

じょじゅられませんでした

 こんにちは。米澤です。

 さっきこのblogを読み返してみたんですが、何だかぜんぜん仕事をしていないように見えて衝撃を受けました。このまま「お一人さまの夕食・放浪篇」を書き続けるのも悪くはないかもしれませんが、その判断は今後の検討課題として先送りして、少しミステリっぽいことを書くことにします。

 先日、ちょっと古いミステリを読んでいました(ええと、1985年ですね)。メインの物語と一見それとは関係のない状況が双方向的に進み、いくつかの魅力的なエピソードも添えられて、いよいよ事件の幕が上がったのは一冊の本も中盤にさしかかった頃でした。状況は悪く、物語は悲劇的結末を避け得ないかに見えました。
 ところで私は、書き手としてはあまりそういう気配を見せていないと思いますが、読み手としては新本格ミステリの時代を経てきています。つまり、その、少々口はばったい言い方になりますが、私をじょじゅることは容易ではないのです。

(じょじゅる:「叙述トリックにひっかける」の意。練馬高野台あたりにたむろするナウなヤングの間で大流行の新語。若者言葉について行けない皆様も職場でさりげなく披露すれば効果バツグン!)

 いまさらな話ではありますが、叙述トリックには「作中人物と読者を騙すためのもの」と「読者のみを騙すためのもの」の二種類があります(「作中人物のみを騙し読者を騙さない」場合、トリックとは言いません)。後者の方がサプライズは大きくなりますが、私が好きなのは前者です。
 私が読んだミステリで使われていた叙述トリックも前者でした。作中人物たちが首を捻り、悲劇の予感に顔を曇らせている記述を読みながら、トリックを確信していた私は「ああ、はいはい、こいつがあれであれをそれするためにこうしてたのね」などと思っていました。
 ところが、そんな読み方をしながらページをめくる手が、ふと止まりました。

 本の終盤に告白がありました。
 一見すると歪んだ告白であり、ともすれば醜悪とも受け取られかねないシーンでした。
 しかし「こいつがあれであれをそれするためにこうしてた」ことがわかっていた私には、その告白が真情に溢れたものであり、過酷な運命との和解を意味するものであるとわかりました。
 良い場面でした。

 が、もし叙述トリックを見抜いていなければ、これほど良いとは思わなかったに違いありません。
 仮に私がトリックに気づかず読み進め、読み終わった後でページを戻り、この告白を見つけたとしたら、「こんなところに伏線があったのか」と感心したことでしょう。しかし感動はしなかったはずです。一粒で二度おいしいのはアーモンドグリコの専売特許です。このミステリで読者は、見抜いて感動するか、見抜けず感心するかの二択を迫られていたと言えます。

 これはちょっとした問題です。どちらの方が良い読書だったと言えるのか……。
 私は前者の方が良いと思うのです。しかしそれを突き詰めれば、「見抜かれることを前提として小説の最高潮を配置するぐらいならば、最初からトリックなど用意しない方がスマートだ」という考え方を否定できないでしょう。
 つまり「これは良い小説だった。ミステリでなければもっと良かったのに」という、しばしば見受けられる批判を肯定する材料になってしまいます。
 それは困るんですよね。個人事業者的に。

 まあ、他人の作品を自分の仕事と結びつけすぎるのも僭越というものです。
 ただ、この辺に、私が叙述トリックを用いない理由があるのだろうなとは思います。
posted by 米澤穂信 at 00:32| 近況報告