2022年11月05日

『南無殺生三万人』帯文


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魔風なおも逆巻く――
なんと妖美に歴史を彩るのだろう
山田風太郎、奇想奔放たり


著:山田風太郎
出版社:宝島社(宝島社文庫)

 上記新編の帯文をお任せいただきました。
 収録作の中では、生きることの喜びを高らかに歌い上げ、政治の化物と成り果てた家康をも魅了する「慶長大食漢」が最も好きです。
 武田・徳川の今川侵攻を描いた「姦臣今川状」、戦国の法から平時の法へ移り変わる時はこのようなこともあったかと思わせる「南無殺生三万人」が、それに次ぎます。
 本書が広く手に取られる一助になればと思います。

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2022年11月04日

『栞と嘘の季節』


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(しおりとうそのきせつ)


著:米澤穂信
装幀:坂野公一(welle design)
出版社:集英社

発売日:2022年11月10日
定価:1,650円(税別)
四六判仮フランス装
ISBN:978-4-08-771813-3



わたしたちは切り札を持たなきゃいけなかった



 27冊目です。

『本の鍵と季節』の続編です。
 松倉詩門が図書室に来なくなり、堀川次郎は図書委員の仕事を続けつつ、友を待っていた。そして彼は帰ってきた……不在の期間など、ただの一日もなかったかのように。そして二人は元通り、放課後の図書委員としての務めを再開する。だが、いつもの業務は、いつものようには始まらなかった。
 返却本に挟まっていた、忘れ物の栞――松倉はそこに用いられている花が、猛毒のトリカブトだと気づく。余計なお世話かもしれないが、栞の持ち主にひとこと、これは毒だと教えた方がいいかもしれない。堀川と松倉がそう考え、栞を特別な場所に隠した時、彼らはこの街で静かに始まっていた事件にかかわってしまった。

 栞は、誰が何のために作ったのか。同学年の瀬野を加え、三人は毒と嘘の迷路に踏み込む。
 そして、誰にも知られないはずだった過去が、あばかれてゆく。

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2022年10月06日

『元禄おさめの方』帯文


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妖風いまだ止まず――
得がたい珠玉に、またも巡りあった
山田風太郎に底はないのか


著:山田風太郎
出版社:宝島社(宝島社文庫)

 上記新編の帯文をお任せいただきました。
 本書の中では表題作「元禄おさめの方」が圧巻、白眉です。一人の女性の死を通じて、元禄という時代、綱吉という「暗君」への見方に変更を迫る、迫力ある一篇でした。
 本書が広く手に取られる一助になることを願います。

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『アブナー伯父の事件簿』帯文


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ここにはミステリとアメリカ、
それぞれの若き日の姿がある。
そこでは敬神と合理、
法の尊重と自力救済が
矛盾なく同居している。


著:M.D.ポースト
出版社:東京創元社(創元推理文庫)

 上記復刊の帯文をお任せいただきました。
 アブナー伯父は特異な人物です。私の中ではブラウン神父(カトリック)、修道士カドフェル(修道会)、そしてこのアブナー伯父(プロテスタント)が敬虔なる名探偵の三巨頭なのですが、アブナー伯父だけが聖職に就いていません。畑を耕し、牛を飼い、そして事件とその解決の中に神の手を見るのです。私はそれを、アメリカらしいと思います。
 本書が広く手に取られる一助になればと思います。

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2022年08月23日

『殺意』解説


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著:井上靖
出版社:中央公論新社(中公文庫)
解説:米澤穂信

 井上靖の小説群からサスペンスに富む作品を特に選んだオリジナル短篇集の、解説をお任せいただきました。身に余る光栄です。
 初めて読んだときからそのおそろしさ、かなしさが胸から離れない「雷雨」は、やはり何度読んでもいいものでした。作中の双璧は「傍観者」「ある偽作家の生涯」でしょう。高潔と俗悪を二つながらに描き出す井上靖の筆の冴えについては、いまさら私などが何を言うまでもないことでありますが、新しい読者の入口になればと願うばかりです。

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2022年08月03日

『沈黙のセールスマン』帯文


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 自らの性分に振りまわされ、打ちのめされ、自らがぼろぼろであることを理解しながらも、他人の問題を解決する仕事を天職とし、すべてをそれに捧げて生きる男。
 私はアルバート・サムスンが好きです。
(ミステリマガジン2022年9月号より)


著:マイクル.Z.リューイン
出版社:早川書房(ハヤカワ文庫)


 上記復刊の帯文をお任せいただきました。
『沈黙のサラリーマン』は、アルバート・サムスンシリーズの最高傑作であると同時に、私にとっては大いなる謎です。捜査と推理の小説として圧倒的な面白さを備えながら、その面白さを、うまく言葉で説明できずにいるのです。
 シリーズの中では、『消えた女』が本作と並ぶ傑作です。アルバート・サムスンシリーズが広く手に取られる一助になればと思います。

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2022年06月25日

「三つの秘密、あるいは星ヶ谷杯準備滞ってるんだけど何かあったの会議」


掲載誌:「小説野性時代」(KADOKAWA)vol.224


「じゃあ、会議を始めます。題して――星ヶ谷杯準備滞ってるんだけど何かあったの会議。よろしくお願いします」



 神山高校伝統のマラソン大会、星ヶ谷杯。その開催が間近に迫る中、運営を司る総務委員会は問題を抱えていた。準備が一向に進まないのだ。
 問題に対応するため、用意を担当する「ルート誘導班」「用具調達班」「救護・計時班」の班長が集められ、会議が開かれる。司会を担当するのは総務委員会副委員長、福部里志。そして、かの美しいテンプレート、責任のなすりつけ合いが始まった。
 会議ミステリです。責任の所在を明らかにするか、それとも、問題解決を第一に掲げるか。匙加減はすべて、福部里志に任されています。

タグ:〈古典部〉
posted by 米澤穂信 at 00:00| 雑誌等掲載短篇

2022年04月05日

ご挨拶を申し上げました


 過日、芥川賞・直木賞の贈呈式が行われました。その際のスピーチの一部は報道でも伝えられましたが、そのほかの部分について、こちらでざっくり要約します。



 読者の皆様、選考委員の諸先生、関係者の皆さまにお礼申し上げます。とりわけ、私にはこの小説が書けると私よりも強く信じて下さった担当編集者さん、すべてを支えてくれた妻に、別して感謝を捧げます。
 拙作が遠くまで飛んで行ってしまい、私自身は仕事部屋の窓から、自分の小説が飛んでいくのを見送っているような気分です。

 私は『黒牢城』をミステリとして書き、ミステリとして万全を期すため、十六世紀日本の文化や慣習、人の心を精緻に描こうとしました。一休禅師のものと伝えられる「分け上る麓の道は多けれど同じ雲井の月を眺むる」という道歌に似て――どうも本人の作ではないようですが――、ミステリという登山口から上り始めても小説の普遍性という大きなものに触れることは出来るのだと、肯定されたように感じています。

 よきミステリであろうとした『黒牢城』は、その必然的な結果として、組織や軍事、統治についての小説としても書かれることになりました。ただ私は書いてゆく中で、もう一つ、当時の人々が何を恐れ何にすがったのか、すなわち信仰についてどうしても描かなければならないと感じつつ、それをためらいました。読者がそれを喜ぶだろうかと思ったからです。
 しかし私は、『折れた竜骨』が山周賞の候補になった時の選評を憶えてもいました。

 そこでは、浅田次郎先生と篠田節子先生が異口同音に、この小説は思想や精神を書くべきだったと指摘されていました。北村薫先生が、この小説は本格ミステリであることが思想なのだと仰って下さったことを嬉しく思い、私自身、『折れた竜骨』はあれで完成なのだと考えています。しかし一方で、もしいつの日か再び中世人を扱うことがあるならば、当時の人々の心の柱を書くことを恐れるまいと誓ったことを、思い出したのです。
 おそれを捨て、誓いを果たせたことを、嬉しく思います。



 ありがとうございました。

posted by 米澤穂信 at 00:00| お知らせ

2022年02月22日

「供米」


掲載誌:「オール讀物」(文藝春秋)2022年3・4月合併号


 思えばあの日、私は自らの詩才に見切りをつけたのだという気がする。春雪の言い分はまったく是と出来ないものであったが、それを肯定できないのが私の限界だと悟ったのだ。塩と味噌で酒を飲みながら、私は、私には理解できない小此木春雪よ、君はどこまでも飛んでいくがいいと思っていた。僕は地上にあってそれを見上げよう。
 あれから、世は明治から大正に移った。春雪はもう飛ばない。


 大正。詩人小此木春雪が持病の喘息で世を去ってから一年、遺稿集が刊行された。しかしそこに載った詩は、春雪らしくもない緩みのあるものばかりで、これでは春雪の遺名は下がるばかりに思われた。
 春雪の友人で、その葬儀では挽歌も作した「私」は、遺稿集を出すと決めたのは春雪の細君だという話を聞き、その真意を確かめるべく汽車に乗る。向かうは春雪の故郷にして最期の地、濃州中津川。車中、彼は自分と春雪との友情を思い出してゆく。

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2022年01月07日

『赤い蝋人形』帯文


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地獄だ
人間地獄がここにある
推理に何が救えよう


著:山田風太郎
出版社:河出書房新社(河出文庫)

 上記新編の帯文をお任せいただきました。
 山田風太郎の現代短篇の中で、私がこよなく愛する二編、聖俗が混淆して人間性の極致を描き出す「新かぐや姫」、惨劇の合間からそれにも増してかなしい創作の業が見える「赤い蝋人形」が収録されています。
 本書が広く手に取られる一助になればと思います。

posted by 米澤穂信 at 00:00| 解説・推薦・編纂

2021年12月09日

「羅馬ジェラートの謎」


掲載誌:「紙魚の手帖」(東京創元社)vol.2


 三月のショッピングモールで小佐内さんが謎の存在に気づいたのは、暖房が効いた店内でチョコスプレーがジェラートに沈んだ、その深さからだった。


 このところ借りを作り過ぎた小鳩が、小佐内に埋め合わせを提案する。小佐内は、郊外のショッピングモールに出店した噂のジェラテリア〈アバーネッティーズ〉の、ジェラートを要求した。
 テストが終わった三月のある日、二人はそれぞれショッピングモールを目指す。合流したジェラテリアで小佐内は、自らのジェラートにチョコスプレーが沈む深さを見て、何かを悟った……。

 北原尚彦先生の解説付きでございます。

タグ:〈小市民〉
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2021年12月01日

「片恋」


掲載誌:「週刊新潮」(新潮社)2021年12月2日号〜12月23日号


 高校生の時、わたしの恋人がわたしと姉を見比べて、「どうして?」と言い放ったことがある。まったく、どうして、である。その頃のわたしには、姉とわたしが姉妹であるという事実こそが世界の理不尽さそのものだった。それはそれとしてわたしはそいつを殴って交際を終わらせた。


 小さな町工場に生まれた姉妹。姉は美しく、妹は、いずれ自分も姉のように美しくなるのだと思っていた。時は流れ、生きることを喜んでいない姉と、たくましく人生を切り開く妹の道は、思いがけないところで交差する。
 そして妹は、姉「で」人を殺すことになる。

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『本陣殺人事件』帯文


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日本ミステリに夜明けを告げた
若き情熱の結晶である


著:横溝正史
出版社:KADOKAWA(角川文庫)

 上記の帯文をお任せいただきました。
 まさか自分が『本陣』の帯文を書く日が来ようとは、思いもしないことでした。そして読み返して思う、「新本格」との共通項! こんなに若々しい小説だったとは、かつては気づくことが出来ませんでした。
 日本ミステリに燦然と輝くマイルストーンの、艶消しになっていないことを願っています。

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2021年11月10日

『米澤屋書店』


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(よねざわやしょてん)


著:米澤穂信
装幀:大久保明子
出版社:文藝春秋

発売日:2021年11月10日
定価:1,700円(税別)
四六判上製
ISBN:978-4-391452-7



 読書という大海の前ではとんだ蛙ではありますが、蛙も時には真の宝に巡り会うことはあったのだと思し召し頂ければ幸いです。



 26冊目です。

 これまで25冊の本を書くかたわら、折に触れて書いてきた読書に関するエッセイが、どうしたわけか一冊にまとまって本になりました。
 しょせんミステリや小説について当を得たことは言えそうもない私ですから、出来ることは、ただ楽しそうに読むさまをお見せすることばかりです。
 せっかくの機会ですからおすすめのミステリを上げようとしたところ、原稿用紙120枚のおまけとなりました。
 ついでに、ところどころに註釈を加えて幅広い世界へのいざないにしようとたくらんだところ、こちらは180枚相当となりました。

 お楽しみ頂ければいいのですが。そして……。
 どこかの誰かが生涯の一冊に巡り会う、その小さなお手伝いになれば、本望です。

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2021年10月07日

『ウサギ料理は殺しの味』帯文


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 唯一無二。
 奔放なる奇想が
 生み出してしまった、
 ミステリ史に残る大怪作です。


著:ピエール・シニアック
出版社:東京創元社(創元推理文庫)

 上記復刊の帯文をお任せいただきました。
 本書を初めて読んだときの「なんだこれ」「なんだこれ!」「なんだこれ……」という思いは、忘れられません。その印象を何とか言葉にしようと試みました。ですがいっそのこと、「なんだこれ」でもよかったかもしれません(よくないか……)。
 本書が広く手に取られる一助になればと思います。

posted by 米澤穂信 at 00:00| 解説・推薦・編纂

2021年08月18日

『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』帯文


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透徹した叡智が、
その果てにおいて幻想と交わる――。
なんと厳粛な小説集だろう。


著:石黒達昌
出版社:早川書房(ハヤカワ文庫)

 上記新編の帯文をお任せいただきました。
 科学者の目と作家の手が、かくも冷徹な小説を生み出しました。私はかねがね、本書収録の「平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、」は、もしかしたら誤解されているのではと感じています。明寺伸彦博士の死因はたしかに後天性免疫不全症候群だったかもしれませんが、それをもたらしたものは何であったか。私はそこにミステリを見ます。
 本書が広く手に取られる一助になればと思います。


posted by 米澤穂信 at 00:00| お知らせ

2021年06月27日

「可燃物」


掲載誌:「オール讀物」(文藝春秋)2021年7月号


 いずれにしても、火つけは火あぶりですよ。これまでは小火で済みましたが、次もそうとは限らない。


 地方都市で連続放火事件が発生。県警捜査一課から葛班が派遣されるが、捜査開始直後から放火はぴたりと止んでしまう。捜査員が犯人に気取られたのか、それとも……。葛は消防の火災調査係と連携し、この街で過去に起きた惨事を知る。
 聞き込みと張り込みと手口記録を武器に、一歩ずつ犯人に迫っていくホワイダニット。

タグ:〈葛警部〉
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2021年06月02日

『黒牢城』


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(こくろうじょう)


著:米澤穂信
装幀:岩郷重力+WONDER WORKZ。
出版社:KADOKAWA

発売日:2021年6月2日
定価:1,600円(税別)
四六判上製
ISBN:9784041113936



罪は我にある



 25冊目です。

 天正六年、冬――。
 織田家から摂津一国を任されていた荒木村重が、突如、叛旗を翻す。村重を説得するべくその居城・有岡城を訪れた黒田官兵衛はその智謀を危ぶまれ、囚われて地下牢に入れられる。
 数万の織田勢に囲まれた有岡城という密室に閉じ込められ、人の心はいつまでも平静ではいられない。一人の死が、一つの首が、一口の壷が、城内の将兵、そして民の心を動揺させる。村重は人心を収攬するため、智略を尽くして難題に立ち向かう。
 だがそれでも解き得ぬ謎が残った時、村重は、この有岡城にあってただひとり村重を上まわる知恵者、播磨にその人ありとうたわれた知将、もう二度と会うこともないと思っていた黒田官兵衛に答えを求めるため、ひとり地下牢へと降りていく。

 地上には戦雲がたなびき、地下では、二人の武士が心底を読み合う。
 修羅の世の果てに、救いはあるか。


第12回山田風太郎賞受賞作
第166回直木三十五賞受賞作
第22回本格ミステリ大賞受賞作
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2021年02月18日

灰色の靴下


 灰色の靴下に穴が開いたので捨てた。
 この靴下は病院で買ったのだ。

 何年前だったか、ひどい頭痛で、寝れば治ると思って寝たところ、悪化の一途をたどって嘔吐した。#7119に相談し、そのまま救急に繋いでいただいた。
 ストレッチャーで運ばれていくとき、必ず戻ってくるがその時にこれがないと困ると思い、救急車に靴を持ち込んだ。

 嘘のようだった。点滴から薬が入っていくたび、破滅的な痛みが消えていく。「薄紙を剥ぐように」という慣用句はこういうことであったかと思った(「薄紙を剥ぐよう」にしては、あまりに急激な回復であったが……。猫がいたずらで薄紙をべりべりと際限なく剥がしていくよう?)。

 治療を終えて、帰れることになった。こんなこともあろうかと持ち込んでいた靴を履こうとして、素足であることに気がついた。
 仕方がないので、病院の売店で、灰色の靴下を買った。

 時が経って、その時に買った靴下が破れた。
 穴の開いた靴下を捨てて、ひとは死ぬので無理はよくない、と改めて自分に言い聞かせる。

 無理のしどころというのはあって、無理しないとどうにもならないこともある。それはそうなのだ。
 でも、次は救急要請が間に合うとは限らないし、点滴で済むとは限らないし、もういちど靴を履いて、灰色の靴下を買って、たいしたことなかったねと笑いながら家に帰れるとも限らない。

 ひとは死ぬので、無理はよくない。

posted by 米澤穂信 at 18:13| 近況報告

2021年01月22日

「ねむけ」


掲載誌:「オール讀物」(文藝春秋)
発売日:2021年1月22日


 人間の観察力と記憶力はあいまいなものだ。時に誤り、時に正確になる。葛は、二人の目撃者の証言が一致したとしても疑問には思わなかっただろう。三人の言うことが同じだったら、少し疑う。そして四人がまったく同じ証言をしたとなれば、それを頭から信じることなど出来はしない。



「オール讀物」に寄稿した短編です。

 強盗傷害事件が発生し、特別捜査本部が設置された。被疑者は数人、中でも特に容疑が濃厚な男がいる。刑事にマークされていた彼は、深夜三時、交通事故を起こした。
 現場の交差点には信号機があった。もし被疑者が信号を無視したのであれば、公明正大に逮捕できる。葛警部は事故の目撃者を探すよう、指揮下の刑事たちに名じる。そして、目撃情報は集まった……いともたやすく、充分な数が。

 ハードワークゆえの睡魔に襲われながら、しかし葛はひっかかりを覚える。深夜三時の事故に四人の目撃者がいて、その証言が大枠で一致することがあり得るだろうか。
 深夜三時、強盗被疑者は何をしていたのか。証言者たちは何を見て、何を見なかったのか。彼らに繋がりはあるのか?
 葛は、逮捕しないための裏付け捜査を命じ、自らは推理に没頭する。

 ミッシングリンク!
 せっかくですから、葛警部に先んじて「共通項」の正体を当てられるか、試していただければ幸いです。

タグ:〈葛警部〉
posted by 米澤穂信 at 20:57| 雑誌等掲載短篇